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僕の名前は十兵衛・・11月5日生まれの4番目の息子です・・よろしくねっ。


by fumiyoo
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戦争

スペインに『ヒロシマ ナガサキ広場』と『日本国憲法九条の碑』が・・・

私と共に生活をした姉は今年3月3日に72歳でなくなりました。
初盆で実家へ帰り兄夫婦と二番目の姉と姪、それに私達夫婦で話に花が咲きました。
何時もの事ですが「昔の話」になります。
こんな時、上の3人は昭和11年、13年、15年生まれなので私とは味わった生活が違います。
何時も聞き役になってしまいます。
「はだしのゲン見た?」とテレビの話を始めた時、姉は「途中まで・・あんなん、最後まで見れん」と言いました。
自分が空襲を受けたときの記憶が蘇ってくると・・兄も同じだった。

防空壕へ逃げ込んでそこへ水が入ってきたとき、一番小さかった兄と食べ物をタライに乗せて非難した事。
空襲警報がなって橋の下に逃げた事。
空襲が終わり家に帰る道々で、木にぶら下がったまま死んでいる人、
片手、片足が飛んだまま横になってうめいている人。
目が飛び出した人。
小さな息をしている人・人・人を踏み分けて家路に着いた記憶が蘇ると。
「とても、見てられへん」。と姉は言った。
初めてでした兄妹で戦争の話をしたのは・・・

私は「はだしのゲン」をみて泣きました。
こんな理不尽な事が二度とあってはならんと思いましたが
私の「思い」は映画としてみている戦争に対して涙したのかもしれない。
日本のこんな時代が何故来たのか考えました。
そしてこれからの子に語り継がねばとも思いました。
でも、実際に経験してない私達がどの様に「戦争」を感じれば、伝えられるだろうか?
そこへ思いはつきました。

何かを書こうにも貧しくて書けない。
そこへ70歳代万歳!」と言うプログへ向かいました。
当然私の姉や兄の世代の人からの話しが聞きたくて
そこにはhisakoさんのお兄さんのプログ[日中戦争の中の青春]も紹介されていました。

亡くなった姉の父親が昭和11年3月に出兵して帰らぬ人となりました。
幼い頃に聞いたのは「南方で死んだ」。だけでした。
今となっては聞く人も今はもう、いませんが昭和11年、1936年は「日中戦争」はまだ始まっていません。
何処で何に巻き込まれて死んだかが分かりません。
でも、姉を抱いて母が見送りに駅まで行った話も聞きました。
従妹同士の無理やりの結婚だったので気の強い母はイヤイヤ駅へ行ったと聞かされました。でもそれが最後になったのです。
姉は生まれて3ヶ月の赤子でした。

「戦争」を意識して生活しなければ、何時か憲法が改正され
それはアメリカの軍事の「手先」への道をまっしぐらに突き進むように思います。

世界に憲法9条ありきを知らせましょう!私達の平和は私たちで守らないと何時か崩れます。その危機感をもって考えないといけないんだなぁと思いました。
by fumiyoo | 2007-08-20 19:08