僕の名前は十兵衛・・11月5日生まれの4番目の息子です・・よろしくねっ。


by fumiyoo
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つれて逃げてよ~~

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  1月15日2.8Kでした。2月26日5.2Kになりました。大きくなったでしょう。
でもまだオシッコお漏らしするの、お母さん怒ったら「鬼」みたい!怖っ、でも大好き!
何時も僕のお尻ばかり見てるの・・・チョット疲れてるんだって・・
後、2週間ぐらいで僕もお散歩デビューできるんだって、「早く行きたいなぁ・・お外へ出てみたいよ~!」。


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シャッター速度が遅くてナカナカ取れませんが空中で一回点半します。我が家に来てすぐです。
ゲンより俊敏・・確かに身体能力すごいです。旦那と二人、目を回してます・・
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by fumiyoo | 2007-02-27 17:11 | 十兵衛
出産の話 助産士さんがたいせつだということ。

私が妊娠したのは昭和52年(1977年)だった。28歳になっていました。
最初なので大きな病院が安心という事で関西労災病院の産婦人科へ行きました。総合病院で関西ではわりと有名でした。
 最初の診察で私は「手術の同意書にサインしてください」と言われました。何のことなのか分からず訊ねますと医者は「卵巣が腫れてます。摘出します。」と言いました。私は「赤ちゃんは如何なるのですか?」と訊ねると「今回は諦めてください」との事。エレベータが急降下した様な気分になりました。
 次の瞬間、待合室で待っている他の患者さんに私は話しかけました。「失礼ですが、今日は、何の診察ですか?お産ですか?」と。本当に失礼だったのですが4,5人の方と話しました。私が驚いたのは術後の診察の方が多くて、それも私同様「卵巣が腫れている」という理由での手術でした。
 私はオロオロする母に言いました「帰るよ。私は子供生む為に病院きたんや!、おかあちゃん他の病院行くわ、帰ろ」。母はオロオロしながら「そうやなぁ、ほか行こう・・」と言いました。
 二人は急いで帰りました。その足で実家の近くの「川口診療所」へ行きました。卵巣が腫れて手術しましょうと言われた事、体の状態、イロイロ話しました。小さな個人の産婦人科専門診療所。先生は一人。看護婦さんも4,5人ぐらい。受付は奥さんが時たま出てこられてた。
何処がいいのか分からないままに実家から5分・・と言う理由だけで最初は選びました。
 「ウーン、確かに腫れてるなぁ。でもホルモンの関係で腫れる事もあるんで、2,3日入院して様子見ましょうか?」「ハイ」何故かホッとできる先生の人柄でした。
 翌日「どうもないでしょう、このまま元気な赤ちゃん生んでください」そう言われ退院。
 勿論、その病院で産みました。最初の子は陣痛が10分おきに来るまで病院に来なくていいと言われ実家で旦那と待機していました。
 破水が先にきてしまったので慌てて病院へ、分娩室に入りましたが陣痛が微弱で23時間後に陣痛促進の点滴を受けました・・・2時間の点滴。分娩室でひとりでした、時たま看護婦さんが見に来てくれましたが「あぁ、まだやなぁ・・」といっては出て行きます。
 夕方近くに助産婦さんが来ました。私は破水を2回ほどした事をつげ、陣痛も微弱で長い事を告げました。助産婦さんは赤ちゃんの心音を私のお腹越しに聞いていました。
「うん、この子強い子やわ。しっかり心音打ってるお母さんがんばりなさい」
「がんばれ言われても、陣痛が・・こない。もう、しんどいです。お腹切ってください」。
「なに言うの、今から手術の機器洗って、用意してたら2時間はかかる、赤ちゃん弱ります。看護婦さん合図しますし、馬乗りになって抑えてください。私は赤ちゃん受け取ります。さぁお母さんがんばって・・1、2,3、ウー。1,2、3、ウー。
 ウーという度に人工的にいきむのです。看護婦さんが2人で交代になり私の体の上半身にまたがり溝内あたりをウーという掛け声の時に押すのです。
 「頭出てきたよ、お母さんがんばりなさい。赤ちゃんもがんばってる。それっーー!」 「あぁ、看護婦さん先生呼んで、生まれますかから・・」と助産婦さん。
私は“まな板の鯉”助産婦さんの掛け声どうりにがんばる以外ないのです。イタイもくそもない。早く生まないと赤ちゃんに負担かけてしまうのでは・・・それだけが心配でした。
 ペタッペタッと先生のスリッパの音。ドアが開く音。白衣がヒラッヒラッ・・と見えました。
「おー!生まれるぞー。もう少し一気にがんばれ・・」先生の声。
「吸引するからなぁ、さぁ。1、2、3がんばれー」
次の瞬間。スポッ。ピシャピシャとたたく音。
「オギヤーオギャー・・」
「おめでとうございます。男の子です。」
ホッとしました。あの音は赤ちゃんのお尻を叩いていた音だったんだ。
病室は母子同室なのですが半日だけは母親の体をきずかって赤ちゃんは新生児室です。病室に母と兄が入ってきました。直前までケンカしていた母でしたが目には“なみだ”が見えました。
 「おかあちゃん有難う。」自然に口から出ました。兄も喜んでいました「素直やなぁ、何時もそうやと良いのに・・元気な子やでぇ」二人はそれだけ言って帰っていきました。
肝心な旦那は出産が長引いたので陣痛の途中で仕事へ戻りました。仕事が終わるや跳んできてくれたのは言うまでもありません。


   
P.S
  最近の大病院も助産婦さん制度を受け入れ混合でしている所もあります。私の出産も助産婦さんの判断で無事生まれました。最後の出産時に医師が立ち会わないといけなかったのでしょう、最後の最後に先生を呼びました。30年近く前のお産なのでまだまだ、助産婦さんがいましたが常時いるのではなく、時間帯だった様に思います。
部屋も母子同室で出産後ベッドで授乳します。母親のベッドの脇に赤ちゃんのベッドがありました。初乳は抵抗力、免疫力を高めるので、絞って赤ちゃんに必ず飲ませます。ミルクは、そう言えば飲ませませんでした。自宅に帰ってからも授乳して、体重の増え方で母乳が足りているかどうか見るみたいなのですが、母乳は「掘れば湧き出てくる井戸」にたとえられるように根気よくやれば出てくるようになる・・・と教えられました。
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by fumiyoo | 2007-02-21 15:40
バスガス爆発って言える?
この国はどこかおかしい。・・・そうだと思います。

お店をしていると、お金の使い方で世の中の動きが見えるときがあります。
何年か前までは、毎朝パンを買いに来てた方が年金の減額、保険料の値上げ、娘夫婦・息子夫婦のリストラによる子供達の生活の変化、病院代の値上げ、健康の事・・等々で2日に一回が3日に一回になり、淋しそうに店先で話しながら帰っていきます。それらの事が今、年金生活者のほとんどの方を圧迫しています。。
特に国民年金だけの方は酷い状況です。私の知り合いで大工さんがいました。
彼は15歳から60歳まで大工をしていましたが60歳で定年を迎えました。腕に技術があっても生かされない時代。工務店が不景気で何時の間にやら、大工さん達をサラリーマン化して60歳定年をひかざるを得なくなったのでしょう。
彼は仕事を失うと同時に、癌になり、病院生活に入りました。頼みの綱の年金は40年かけて5万円足らず、食べていけるはずもなく、彼の奥さんは最初、貯金を切り崩して生活していました。そんな生活が2年も続いたでしょうか、癌は一応の回復をみせ、ホッと安心した家族は彼に「何でもいいから仕事を・・」と言いました。しかし職人肌の彼は大工に拘り、他の仕事は考えられないようでした。
仕事の事で家族間、特に夫婦間でいがみ合うようになりました。奥さんも働いた事がなかったので必死だったのです。でもその“必死”が今度は彼を追い詰めたようでした。
彼は「欝状態」になり、摂食障害になりました。奥さんは如何にか見つけた“掃除の仕事”を始めましたが、そんな矢先彼は63歳で亡くなりました。国からは年金受け取り消滅と共にお香典が10万円きただけです。彼はガリガリになりましたが最後までかなづちやのこぎりを離そうとせず自宅を手直ししていました。よく、トントン、ギィギィという音を聞いたものです。
でも奥さんは、反面ホッとしたようでした。奥さんはパートで得られる7万円余りの生活費と預貯金で今は一人暮らしです。大阪にいる娘さんが時たま来られていますが、ぼやく相手もいなくなり、一人暮らしが本格的に始まるのはこれからです。
寒い、厳しい季節は老人だけではありません。これからは我々にもやって来るのです。

10年前、主人の友人で税理士事務所を経営している方と話したとき、「これからは、我々は姥捨て山行きやで、国は何にも考えてない。税金取るだけとって、後は自己責任やいいよるで・・・」と言ってた言葉が鮮明によみがえりました。
「ほんまになるん?ほんまかいなぁ・・・」とこの国のしていることにもう一度自問自答しては我を振り返っています。
確かに、この国は今、おかしいです。
若い人が希望をもって所帯を持てるようにしてほしい。
この国を支えてきた人達が安心して生活できるようにしてほしい。
それが最低限度の国の責務だと思う。

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by fumiyoo | 2007-02-19 13:13 | モノポールの話
思い出をつくろう。

タイミングが良いと言うか、今丁度“おもいで”を感じていたときでした。

明け方は気温も低く、風が冷たい、こんな日はこれだけで朝の客足が遅い、遅いだけならいいのだけれど、こんな日は、表通りには人もまばらで「パンを買う」ためだけに早朝から足を運ぶ人が少ない。
午前中の夫婦の交代の休憩時間、私の休憩が終わって、旦那が入れ替わりに二階で食事をとる。ひとりで明日のサンドイッチの野菜の下ごしらえをしていた時、Aちゃんがひょっこり入ってきた。
 「どうしたん?」「うん、あの、おしめ・・・あれにしようと思って・・・」
Aちゃんは今年の夏に母になる。赤ちゃんは布オムツで育てた方がオムツ離れがいいと「布おむつ」を進めていた。それで、反物を買って私が縫う。そう、「縫ったオムツ」をプレゼントしたいのだ。
面倒といえば面倒でしょう、パンパースのある時代なのだから。若いAちゃんは「考えとく・・」という返事でした。初めての子供、色々な角度から考えたいのだろう、無理もない。私の古いやり方は合理的でない。でも母と赤ちゃんには絶対に良いと確信してる。
今日はその返事に来たのだった。「布オムツは乾きも良いし、枚数もそんなに入らん、ただ、縫うのが面倒なので皆使はへんのやて」。
 布オムツに決定!それから、お店の仕入れに七条商店街へ行く。Aちゃんも一緒。家の買い物もついでにする。昔もよく彼女と買い物に来た場所でした。
「おばちゃん、あの“子持ちキクラゲ”まだ、あるやろか?」
「よく、覚えてんねぇ」
「だって、よく弁当のおかずにいれてたもん。美味しかった。」
「見に行こう。まだ、あのお店あるよ。」ふたりでその店へ行った。子持ちキクラゲはなかったが何時ものおばさんがいた。おばさんにおまけの“うすあげ”をもらって“わかめの茎煮”を買った。
 久しぶりのふたりの買い物。昔からの小さなお店が並ぶ。此処へ小さかった彼女を連れてせわしなく“買いもの”したものだった。私が薦めた“子持ちキクラゲ”彼女は気に入っていたんだ。
あの頃はそんな事にも気がまわらなくて、ただ、忙しい中を“手作り”に拘り、せわしなく買い物していただけだった。そんな私の姿を彼女は見ていたんだ。

今、それらの事は「おもいで」となり 私達をつむいでいる。

 此れから縫う「布オムツ」も新しい命の誕生と共に“おもいで”になる日が来るのかもしれない。

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by fumiyoo | 2007-02-16 15:30 | 家族


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サプサル犬は三国時代の古い記録にも残る、むかし話や民画にもよく描かれてきた朝鮮の犬です。サルとは悪鬼のたたりを指す言葉。サプは「追い払う」という意味。つまりサプサルとは、「悪鬼を追い払うイヌ」なのです

サプサル犬という韓国原産の天然記念物のワンコがいた。
このサプサル犬、日帝時代には日本軍によって毛皮をつかわれたり
食用にされていたり、かなしい過去がある。
そのせいか現在、日本には 数頭しかいないそうだ。

その後、獣医の恩師に引き取られた犬たちは、わずか8頭にまで減ってしまったのです。絶滅寸前の彼らを救ったのは、恩師の息子、河智鴻教授でした。河教授はアメリカで学んだ遺伝子工学に基づいて計画的に交配させ、より純粋なサプサル犬を育てていったのです。92年、その活動がようやく認められて韓国の天然記念物の指定を受けました。今では2000頭にまで増えています。

「私たちはこの犬の温和な性格に着目しています。セラピー犬として活躍させたいのです。」 
                                京都新聞より抜粋

もしも、私に 南米に大金持ちのおじさんがいて 遺産がたっぷり入ったら、“露天風呂”
犬を放して飼えるだけの“大きな土地”を買うんだよ~~♪♪♪ラッララッーーー
それまで、待っててね。十兵衛~~?
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by fumiyoo | 2007-02-14 15:48 | 勉強

あんぱんの思い出・・

我が家がパン屋だったことを忘れてました。
パンにまつわる“おもいで”ひとつ,聞いてください。

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                   よく話をしたモノポールのレジの前。

 彼はほとんど毎日決まった時間にやってきた。週に4,5回。
毎回、お目当ては「あんぱん」。あんぱんばかりを3,4個も買う。
「こんなに食べれるん?」「ばあさんもたべるからなぁ」。決まったような会話が続いた。

「おばあさん元気?」ある日訊ねてみた。「ばあさん、あかんわ。頭ボケてきてなぁ」と彼は呟いた。それでも、パンの数は変わらなく買っていく。“まだ、食べられるぐらい元気なんだ”と心の中で思った。

次の日も彼は「あんぱん」を買いに来た。「ばあさん入院したわ。」「そう、おじいさんこれから何でもやらんとあかんねぇ。」「わしか~?わしは今までも洗濯も買い物もしてる。大丈夫やでぇ」と言って帰っていった。ただひとりになったのが何処か淋しげだった。

そうして、おばあさんのいない生活が始まっていった。それでも「あんぱん」の数は変わらない。「おじいさん、あんぱん好きやねぇ。」「うん、面倒な時はこれが飯や。あんたとこのはうまいからなぁ。」「ありがとう。」パン屋冥利につきる一瞬でした。

ある日、思い切って聞いてみた「おじいさん、息子さんいないの?」「いるよ、大阪に。あいつワシに来い来い良いよんやけれどなぁ、ワシはまだ元気やさかい 行かん言うてるねん」「そう、でも不安でしょう?」思い切って聞いてみた。「大丈夫、大丈夫。月に何度かは来てくれてる。孫連れてなぁ。でもあいつも定年したし、歳いってるしなぁ。」そうなんだ、来てはるんだ。少しホッとしたのは私の方だった。

それからも彼は買い物のついでに何時も寄っては世間話をして帰ったいった。
彼は「田中さん」と言った。私たち夫婦の間では「田中さん、今日も来はったか?」は「今日も元気だったんだ」という“確認の合図”のように交わされた。

ある日、気づいてみれば、もうしばらく「田中さん」の顔を見ていない。忙しさに忘れかけていたぐらい長い間、田中さんは顔を見せなかった。

ある日、ひょっこりやって来た。「どうしてたん、田中さん」思わず言葉が先に出てしまった。「う~ん、風邪ひいてたんや。起きられんかってなぁ」。何時も小奇麗にしている田中さんのズボンが汚れていた。シャツも薄汚れて、ボタンも互い違いになっていた。大きな買い物袋も大分前から持てなくて、キャリーで引いていたが、それもなかった。それでも彼は何時ものように「あんぱん」を買って帰っていった。「何だか悪そう、息子さんに来てもらってる?」「うん、あいつも心配して夜中きよったわ。ワハハ」と小さな声で笑った。

それから、一月も経っただろうか、田中さんの息子さんと孫さんが店に来た。「田中です。初めまして、親父からは聞いてました。イロイロお世話になりました。今日は親父に“あんぱん”かって行きます。」「おじいさん、如何されたんですか?」「亡くなりまして、棺にこの“あんぱん”いれてやろうと思いまして・・」「・・・」何も言葉が出なかった。
次の瞬間、「それは大変でしたねぇ、でもおじいさん、しあわせやったと思いますわ」
精一杯の“おわかれの言葉”でした。

見事に彼は自力で出来る限りを生き抜いて息子に看取られて逝った。「田中さんらしいなぁ」。
あんぱんと田中さん・・・忘れられない夫婦の思いが此処にひとつ。

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田中さんの好きだったモノポールのあんぱん
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by fumiyoo | 2007-02-12 15:12 | モノポールの話

川柳・・

第一生命保険が5日発表したサラリーマン川柳コンクールの入選100を何処かのプログで見まして・・その続きと言っては何ですがやたら書きたくなったので・・・オソマツですが  どう?ですか?

話題沸騰  夫婦の会話 からげんき 

いそがしい 息子の仕事  うらめしい

金の卵 使いまわして 団塊世代

一流会社 肩書きあれど さえぬ顔

待ちわびて 老いて悲しい 年金世代

京の町 高さ制限 空広く

給料前 レジにたまるは 100円玉
  
思い出せ 客の注門 口げんか

小銭だし 別れを惜しむ お客さん

子犬来て 孫を迎える 二人かな


絵のように 文章書けたら 印象派

さがしもの  探す前に  「なぁ、おまえ」

息子のチョコ、使いまわして 旦那のチョコ


義理チョコを 選ぶも楽し むすめ時代。
  義理チョコを 選んで食べる おばんちゅ。


売上で  夫婦の会話も はれ・曇り

たよりない 俺がいなけりゃ どうなるお前 

京の町 きもので歩く スローライフ  

     オソマツでした。

    皆さんも、ど~ぞ!
 

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by fumiyoo | 2007-02-10 15:22 | 勉強
ご飯まだ~~?
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ご飯まだ----!!
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ご飯まだーーキッ!
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もういいやっ!のど、渇いたわい!!
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by fumiyoo | 2007-02-09 16:09 | 十兵衛
その昔、忙しくてたくさんの仕事が“生き物”のように押しかけてきた。その「生き物」はローンという味方をつけてその勢いは、私たちを飲み込むかのようだった。
あの頃は、何もかも時間どうりにキッチリ仕事をすることが私の「役目」のように感じていた。店で働く人達にも自分が出来る事と同じ事を要求したりもした。「同じ時間を消費するのなら、一生懸命たくさんの仕事量をこなした方が満足できる時間の使い方だ。」と思っていた。
そんな時は、「人の失敗」や、いい加減な「仕事のやり方」、「時間のルーズさ」、「言葉の使い方」にまで神経がいって決して大きく受け止める事が出来ない時代があった。
そんな時よく旦那と口論になった。彼はどんな状況でも私には厳しかったが、他人さんには気遣いのできる人でした。ある日彼に「お前は “まぁ、仕方ないわ。”という感情がないのか!日本人はどうしようもない状況の時にそういって、他者を受け入れてきた民族なんや!お前には“まぁ、仕方ないわ。”という感情がないのか!」と強く叱られた事がありました。
人の失敗やいい加減さを受け入れる「言葉」として、彼は言ったと思います。
その言葉は私に大きく響きました。大きなローンも仕事量の多さも“言い訳”にはなりませんでした。人間の感情を大切に接する人の言葉なのだと思いました。
私の生活に追われた余裕のなさが他者を攻めていたのだと思います。このような時彼は決して「逃げ道」を用意してはくれませんでした。身内だからこそ、厳しく叱責したのだと思います。今だからこんな風に考えられますがその時は目先の「ローンの重み」に何もかもが見えなくて、自分の“しんどさ”を理解してくれない旦那に反感を感じて“オオゲンカ”に発展したものでした。
今は懐かしい“おもいで”です。
「まぁ、仕方ないわ」と旦那も私を受け入れたのでしょう。

世の中は「まぁ、仕方ないわ」が多いですねっ。d0088332_1643630.jpg
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by fumiyoo | 2007-02-08 16:04
ごめんなさい。少しだけ休みます。
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by fumiyoo | 2007-02-01 14:25 | 家族