僕の名前は十兵衛・・11月5日生まれの4番目の息子です・・よろしくねっ。


by fumiyoo
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植木等

      植木等さん  死去  ご冥福を祈ります。

 一世代が終わったと言う感じを受けた。
人間がまだ肌のぬくもりを感じながら付き合えた時代
クレージキャツ・しゃぼん玉ホリデー・スーダラ節・無責任男・「お呼びじゃない・・」
小学生だった私は何度笑わせてもらったことか、
心地いい人間味のある「笑い」であった。

浄土真宗のお寺の子として生まれ、一生懸命真面目に真摯に人生を歩いた人なんだろう。
高度成長期の日本人が息も抜けないぐらい生真面目に働き続けていた時代に「チョット息を抜こうよ・・!」と声をかけてくれた植木さんの歌やギャグ。そこから生まれた「無責任男」。

今の40代の人には分からないかもしれませんが、家庭を顧みれないぐらい働かなければならない時代があった・・そこに植木さんは寄り添っていてくれた・・・そんな感じがします。

そんな時代も終わりました。我々には又、別の闘いが待っています。
先人が時代と共に頑張ったように
我々も時代と共に頑張れるだろうか・・・


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by fumiyoo | 2007-03-29 15:09

職人の誇り・・

昨日の雨が嘘のような今日は晴天です。
空気のやわらかさが“はる”の訪れを知らせてくれています。

季節の「菜の花」を息子が施主さんからもらってきました。
現場仕事は雨の日も風の日も照りつける夏の日も体全体で一身に受ける。
仕事の重みが理屈ではなく体に伝わっていく・・・

彼が選び彼がそれなりに居心地良く仕事をしている姿は一種の安堵感を与える。
現場によって、もらい物が違う。

タケノコ、大根、菜の花、きゅうり、なすび、柿、牡蠣、みかん、小魚の佃煮・・たまに、饅頭、海苔、クッキー
施主さんの顔が浮かぶようだ。

彼がどんな顔で貰って来るのか・・きっと家では見せないぐらいに照れくさそうに笑って
頭を下げて「有難う。」と言い懐に抱えて帰ってくるのだろう。
仕事を終えたと言う充足感と共に・・

職人の誇りを育ててほしいと願いながら・
・・・・・・
彼の現場からのお土産を料理する。




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   菜の花の辛し和え
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金時豆・・弱火で煮込む最後の時に寝てしまい少し焦がしてしまいました。でも、上の方は食べられます。
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by fumiyoo | 2007-03-28 13:57

姉の痕跡・・

季節はずれの風鈴の音を聞きなら今日はゆっくり・・といきたいところですが、散らかりほうだいの家を少しは片付けるべく朝の7時から洗濯機を回す一日が始まった。

姉が残したCDに「スウィングしなけりゃJAZZじゃない」がある。
懐かしさからかけてみる・・ベートベンの「運命」がかかった。
「ナニュゥ・・」姉らしい・・CDを入れを間違えている・・・姉の痕跡。

いい歳をして何時までも目頭が熱くなる。
私は30年以上前に旦那と出会い彼と結婚し、子供をもうけ京都で生活している。
姉とは長い事生活をともにはしていなかった。
なのに、何時も傍にいたような錯覚をしている・・

私は錨を何処に下ろしたんだろう・・

「スウィングしなけりゃ意味が無い」と言う題名になっていた。
昔は「スウィングしなけりゃJAZZじゃない」だったように記憶している。

このCDは探しても見当たらない。
姉が持っていったのだろうか?



 ハート ・愛の象徴
 十字架 ・誠実の象徴
 錨   ・希望と信頼の象徴
ハートと十字架はさておいて、錨とはいったい何であろうか。どのように苛酷な風雨にさらされても、錨や錨綱がしっかりしていれば、船は流されない。直面する山のような困難に対する最後の希望をつないでいるわけだ。帆以外に推進装置を持たない昔の船にとって錨が効くか効かないかは運命を左右する重要な分岐であったはずである。汽船が帆船にとってかわり、扱いやすいストックレス・アンカーが形の大きなストック・アンカーにとってかわった二十世紀になっても、錨は(ストックレス・アンカーは)希望と信頼の象徴たり得ているのだろうか。

http://underwater.iis.u-tokyo.ac.jp/research/anchorres.html   から。


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by fumiyoo | 2007-03-26 19:01 | 姉たち・・

くつろぐ十兵衛


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お散歩デビューして嬉しかったのは我々夫婦の方でハシャイデ家から嵐山まで歩いてお散歩しました。途中で鳩を追いかけたり、出会う人や犬に挨拶したりと八方美人の十兵衛でしたが
帰ってからノックダウン。
歩きすぎたようでした。
4,5日食欲も落ち、キミズをはいてました。
我々が調子に乗りすぎたのです。

十兵衛の幼い動きがかわゆくて・・
一時は世間のわずらわしさから開放されていました。

今は元気を取り戻しました。

70日で2.8Kでやってきた十兵衛でしたが
今は6.4Kになりましした。

相変わらずジャンプ力はスゴイです。

ひとつ十兵衛の性格が分かりました
「スネオ」なのです。
明るくて元気な子ですがスネます。
白めで上目ずかいに我々を見てケージに入ったまま出てきません。
ナカナカ面白い奴です。
頭を使ってる・・・
叱り方も考えないと・・・いい性格は伸ばさないといけませんからね。
また始まりました「子育て」です。
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by fumiyoo | 2007-03-21 20:13 | 十兵衛
ダウン症の事も余り知らないのに、お客様の言葉どうりに受け取っていた事を恥ずかしく思います。ダウン症とはhttp://homepage2.nifty.com/downsynd/sub1.htmlのページにあるような症状なら、あの上品なお婆さんの言葉とは違います。言葉少ない拙プログだったこともいけなかったのですが,彼女が言うのは「孫は何時も車椅子で、歩く事も出来なくて食べる事も自分で出来ないんです。」全ての筋肉が働かないのかと思いました。それは私の友人の子供とダブったからです。その子の名前は俊哉君。友人とその子供の話をさせてください。

私の友人の祥子さんは私よりも早く“寿退社”したのに子供に恵まれず、やっと宿った子は通勤途中の駅のプラットホームで大量出血という形で流産しました。“ぶどう子”だったのです。

後から結婚した私が子に恵まれた時、彼女は喜んでベビードレスと可愛い靴下を編んでくれました。第一子が無事出産すると跳んできて「写真、赤ちゃんの写真頂戴!」と言いました。訳もわからずわたした写真でしたが彼女はその写真を「お守り」として肌身離さず持っていたようでした。「お守り」のお陰か彼女は翌年元気な女の子を出産しました。

第二子を生んだ時も彼女は「下の子の写真を頂戴!」と言い、言われるままに渡しました。また「お守り」にしていたようでした。彼女は翌年元気な女の子を出産しました。奈良に住む彼女が私の実家の尼崎まで赤ちゃんを見に来たのです。出産のたびに彼女は私が京都に帰るまで待っていられなかったようでした。

ある日、彼女から電話があり又、妊娠したとの事でした。私は流産した事もあり、もう諦めていた時でしたのでとても、羨ましかったのを覚えています。
「私は、もう2人で終わり。残念やけど・・」と言うと
「子供は数じゃないわ、如何育てるかよ」とキッパリ彼女に言われ、変に安心したのを覚えています。

それから、無事出産。待望の男の子でした。
「男の子初めてやからか、分からないけれど、よう、あばれるわ。活発なんやね。」と彼女からの電話があったのは生後3ヶ月ぐらいの時でした。
「そうやなぁ・・男の子やもんね・・」男の子を育てているのは”先輩”と言わんばかりに私は分かったような口を利いていました。2人とも幸せだったのでしょう、たわいない会話が楽しかった。

彼女からの電話・・「またきたなぁ、子供談義だ!・・」と思いながら受話器の向こうの彼女の声に耳を傾けた。「あんなぁ・・・」声のトーンが何時もと違う、どうしたんだろう・・
「あんなぁ、あの子障害あるみたいなんやわぁ、6ヶ月検診で分かったん。」
「・・・・」言葉が出ない。
「どんな障害?」
「今調べてるけど、原因は分からんいわはるけど、出産時に問題があった様に思うねん。でもお医者さんは違う言わはる。」

その後は原因が何と言う事よりも毎日の生活が大きな波を引き連れてやって大きく変動した。
彼女の3番目の子俊哉君と祥子さんの闘いが始まった。
ご主人は未来のない子に何の手立てもいらないという「立場」をとった。
彼女は歩く事も、座る事も食べ物を噛む事すら出来ない、勿論言葉も出ない息子をイトオシミ大切にした。

何の運命か彼女が「主治医」にと選んだ病院が京都の右京病院だった。イロイロな病院を回った挙句の選択だった。わたしの店から車なら15分ぐらい。ひと月か3ヶ月に一度病院に来る、待合室で待つ間だけ時間があった。その時間を惜しんで祥子さんは電話してきた。
「会いましょう。」診察の日は何時も祥子さんと俊哉君と私でお昼をいただいて少しの時間お喋りして帰る。

お店の方に来た時もあった。息子達の「木で出来たおもちゃ」をあげた。
俊哉君は感覚で学ぶ、それを彼女は大切にしていた。
ご主人の協力は一切無い。孤独な闘いでした。
一度だけ聞いたことがあった
「朝ね、朝ごはんしようと思うでしょう、すると俊哉が叫ぶので行くとオシメ代えてほしそうなのね、代えてると主人のご飯の用意が遅れるでしょう、するとテーブルひっくり返して怒るの、子供でしょう。」彼女は困った大きな子供を2人持ってるようだと笑って言った。胸が痛かった。

我慢強く運命を受け入れ命がけで子供達と向き合っていた。
彼女の容姿はミルミル変わっていった。
目は極度に悪くなり、体だけは大きくなる俊哉君を小さな頃からおんぶしていたその背は丸くなり肩に肉が付いていた。
それでも彼女は笑いながら俊哉君と話した。
ただ「アーー、ウーー、キャーー」としか言わない俊哉君と話していた。
養護学校へ行くようになり成長したと喜び、先生との交換日記を見せてくれた。
私と会う時も「ほらっ、俊哉、岡本さんよ、こんにちわって・・そう、そう、分かってんのよね。ほらっ、こんにちわ言ってるよ。」
「俊ちゃん、こんにちわ」喫茶店でお茶を飲む時も俊哉君は私達の間に居た。

上桂に引っ越した時彼女も大阪へ引っ越してきた。「阪急沿線やから、1本で行けるね」
2人とも喜んでいた。

ある日、彼女からの電話
「体具合悪いねん、俊哉の事やお姑さんの事やらでほっといたら、悪なってなぁ・・」
「どうしたん、何の病気?」
「何か血出るし、おかしいおもとったん。大きな病院で検査してください言われてんけど、もう手遅れみたい。癌やねん・・」
「・・・・」
「でも、不思議と怖ないねん。気持ちがすごく落ち着いてる。びっくりしたやろう?・・」と私をきずかった。

それから3ヵ月後に彼女は逝った。
病院には行ったが手遅れで手術も出来なくて食べものも口に入らない状態だった。
「もっと一緒に美味しいもん食べといたらよかったね」と彼女は笑った。
いいというのに病院の玄関ホールまで送ってくれた。

病室のベッドの横のテーブルには俊哉君の写真が何枚も飾られていた。
「私が死んだら、俊哉もあかんなぁ。すぐに駄目になって死ぬわ。家の人はよう、看いひんしなぁ。特別な施設に入れるといってるけど、あんなトコ入れられたら終わりやわぁ。俊哉も死ぬわ、少し良くなって来てた時やのになぁ。・・」
私は何と言っていいかわからなった。

今でも、彼女の言葉が鮮明に残っている。

俊哉君の姿は彼女の家には無い。
聞くことも無い。

・・・・・・・・も彼女が逝ってから10年が経ちました。俊哉君は施設ですが、生きているか死んでいるかは分からない。残された娘さんから手紙を何通か頂きましたが、俊哉君の事は書かれていない。私も聞けないでいる・・・

お店でのあのダウン症と言ったお客さんの話の中身が何故か俊哉君とダブりました。
勝手に「長くないのでは・・そう聞いています。」と言ってしまいました。
ダウン症でも元気に生きてられる方もおられます。
我々の生活の中に溶け込んで・・・
浅はかだったと思いました。
俊哉君は重度の障害を持っていましたが彼女からみたら「自分の子」になんら変わりなかったのでしょう。でも最後の彼女の言葉が今回よみがえりました。
頑張っておられるお母さんに失礼な言葉でした。

第2の俊哉君を出さないでほしい・・・でも仕方ない事もあるのでは・・・家族だけでは背負いきれない問題でしょう。
俊哉君が生きていれば23歳です。
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by fumiyoo | 2007-03-14 16:08

友達

去年の12月に高校時代の友人のお母さんが亡くなった。知らせを聞いたのは1月も中ごろだったように思う。すぐに行こうと思いながら、義兄の死。姉の死。と続いた。「行けないなぁ・・」と気がかりで彼女に電話をした。それだけの用件のはずが懐かしい声を聞いて私の気持ちがゆるんだ。「姉が亡くなってねぇ・・」。
内輪だけでの葬儀のはずなので誰も呼ばないでおこうと兄に言われていた。

彼女達は通夜の日に来てくれた。姉も知っている友人でした。15歳の時から合ったり合わなかったりして時が流れていた。2人の顔を見て何故か「ホット」した。

寒くて震えている私に彼女は黒いショールを私の膝にかけてくれた。温かかった。カシミアのショール、手触りが心地良い。

姉の顔を見て「変わったねぇ、面影ない・・」と淋しそうに言った。2人の友人が姉にお別れをして帰っていった。

何だかとても慰められた。10代の頃話が尽きずに行ったり来たりした三和商店街。突き当たれば彼女の家のほうに、こちらに帰れば私の岐路に、その間を何度行ったり来たりしながら歩いた事か。私が結婚した時には旦那の「着物」を縫ってお祝いにくれた。彼女の結婚式にはスピーチを頼まれ苦労した。

京都に帰り、近所のお風呂友達が「お昼食べに来ない」と誘ってくれた。気分がふさいでいると思い気遣いしてのことだった。
お店の近所の“たまちゃん”は私に「がんばってるやん」と声をかけ、ピーナツいりの飴をくれた。

いろんな人に癒されている私です。有難うございます。
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by fumiyoo | 2007-03-12 17:47 | 友達
 お店にやってきてサンドイッチを買うこざっぱりした上品な初老の婦人。何時もレジで二言三言の会話で帰っていく。
今日は珍しく彼女の方から話しかけてきた「孫がモノポールさんのサンドイッチが好きでねぇ。」「そうですか!有難うございます」。
何時も聞きなれた世間話・・そう思って聞き流す所だったが彼女は続けた
「孫はダウン症でね、でも味が分かるんですね。よそのお店やコンビニのサンドイッチをやると舌を出してペッペッと押し出してくるんです。食べないんですよ。モノポールさんのは味見てから勢いよく食べるので指噛まれるんです。あんな子でも味がしっかり分かるんですよねぇ。」とジェスチャー交じりに話しながら目を細めて笑った。
「そうですか、ダウン症ですか・・家のサンドイッチは自家製のマヨネーズで出来ていますし、卵も朝からゆがきますからねぇ・・・」と私もチョッピリお店の自慢。
「やっぱりねぇ、パンの生地も美味しいけどマヨネーズが自家製なんやね。」
「ダウン症の子の足ってこんなに小さいんですよ。もう中2なのにね。」と両手で足の大きさを描いた。
「そうなん、3番目の子やねんけどね。今日は2番目の子の卒業式でお母さんが出かけたんで私がお昼見ますねん。」続けさまに話す。、目は穏やかだった。
「最近多なりましたねぇ、障害のある子。」
「3000人に1人だそうですよ。」
「そうなんですか・・」
彼女の娘さんの子供がダウン症で、他の子供さんの参観日とか運動会に恥ずかしがらずに何処にでも連れて行くという娘さんの育児態度・・これから自分達が年老いてからの娘の負担が大きくなるのでは・・という心配やらを話し始めました。
そして最後に「この子は何時まで生きるんでしょうね。余り長生きすると娘が・・」
「そんなに長くないのではありませんか?よくそんな風に聞きますが・・」私はためらわずに答えてからハッとした。
こんな風に言って良いんだろうか、生きるという事は死を考えずにはいられない。姉の死をみて間がない私には「死」は近かったのだろう。
「そうやねえ。」と少しうつむき加減に話したかと思うと何時ものようにニコッと笑ってサンドイッチが入った袋をもって
「ありがとう」と言って帰っていきました。

気持ちがフッファとして話したくなったのか、たまらなくて話したかったのか、自然に受け止めつつあるからなのか、珍しく内内の話をして帰られました。

命ある限り、母は守って生きていくでしょう。

愛とは理解する事!お互いのコミニュケーションこそ愛である。

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by fumiyoo | 2007-03-11 17:01

 姉は昭和11年1月1日生まれでした。平成19年3月3日に逝ってしまいました。
私にとっては兄妹以上、母以上の人でした。
兄からの電話で“死”を知らされました。
すぐに飛んで行きましたが私が見たのは姉の変わり果てた姿でした。

告別式が終わって遺品を貰う事になり、私は姉が好きだったCDを全てもらいました。
私の思春期に何時も聞いていた曲・・懐かしい音楽がそこにはありました。
美人で趣味が良くて手先が器用で頭の良い何よりも動物好き、お花好きの姉でした。
苗を植えて3メートルぐらいに育った桜が咲いていました。

写真がいつの間にか処分されていて数枚しかありませんでした。20年近くも一緒に暮らしていたのに写真がない。何時かもらおうと思っていた矢先の出来事でした。

姉が私に残したCDとモチーフ編みのベッドカバー。このベッドカバーは私のチョッキを編んでくれた時に編んだ物です。モチーフで出来たチョッキ。13歳しか違わないのにセーターやチョッキを編んでくれました。

今日は此処までです。心がフリーズして誰のプログを読んでも何にも感じなかった。何も言葉が出なかった。こんな事ではいけません。
「おおきに!、いらっしゃいませ」「有難うございました」とお客様に声をかける度に癒されていくようです。

 ご心配かけました。心配??誰が??と言われそう。姉の作品を見て下さい。



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by fumiyoo | 2007-03-09 15:48 | 姉たち・・

京都駅が変わる・・

2月28日水曜日、私は着付け教室へ行く為に家を出た。「今日でおわりか・・近鉄・・」と頭の片隅にはあったが行けば薄い財布が余計に薄くなる・・止めておこう。
そう、思いながら車を駐車場へ。私の着付け教室は近鉄百貨店の文化サロンという別館にある。駐車場は百貨店の地下を使っている。車を降りてエレベーターで地上へ、右へ行けば教室、左へ行けば百貨店。私の足はしらぬまに百貨店へ。
そんなにハイカラなものがある百貨店ではない。
「87年間、有難うございました。閉店売りつくすセール」  87年という言葉と売り尽くしセールという言葉に弱い。結局着付けはサボってお買い物。

近鉄百貨店のあとには「淀橋カメラ」という家電屋が来る。大型家電。「ビィグカメラ」という家電屋も京都駅に入るらしい。駅の裏には松下電工の巨大な土地が(4万とも6万ヘーベーとも聞いている)大商業施設になるらしい。近畿日本鉄道が京都駅構内のホーム屋上にホテルを建設するとか(客室370室・2012年完成)。

結婚した時旦那がよく話していた「丸物百貨店」それが「近鉄百貨店」になり「プラッツ」と名を変えたが経営は同系列だった。
旦那が幼い頃、「丸物行こか~」とお父さんに言われて連れられて行った「丸物のレストラン」
大衆レストランだったのでしょうがその頃は最高のご馳走だったとよく聞いていた。
幼い頃の親子の思い出「丸物」がなくなりました。
経済の動きは想像も付かないぐらい“おもいで”なんか簡単に消しさって、大きな建物だけが威張ってくさる。
超大型の電気屋が二件、あらゆるお店が、かためられて、便利なのか、お金を吸い取られるだけなのか分からないけれど、大型店ばかりが軒を連ねます。
京都駅は変わりました伊勢丹が来て変わり今度は電気屋です。きれいになったけどダンダン野暮ったくなるような気がする。京都らしさは消えてゆく・・・
京都にお出でになるなら京都駅周辺は京都ではないです。外資が出没しております。京都を探そうと思うなら・・歩いて探してください。小さな路地に京都がある。
犯されない周辺にも京都がある・・探してください・・・消えつつある京都の中にも頑固に守って生きている人達を。

                 かしこ

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1920年(大正9年)1月 京都物産館が京都駅前で創業。


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1977年(昭和52年)5月 「株式会社丸物」を「株式会社京都近鉄百貨店」に商号変更。


2007年(平成19年)2月28日 京都店(プラッツ近鉄)閉鎖。ヨドバシカメラに建物は引き渡されることになっている。
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by fumiyoo | 2007-03-03 16:58
 毎度、すみません。十兵衛をなるべく犬らしく育てたい為に「裏」を自由にウロウロ出来るスペースにしたいのですが、何せ柴犬は「登る」のです。十兵衛は世間知らずにして、なるべく覚えない様にと隠しながら育てていますが、ゲンは人間の胸ぐらいの塀等、オチャノコサイサイでした。何時も、知らぬ間に出てはご近所に迷惑かけてましたので、十兵衛に関しては慎重です。
この裏の塀を高くして、なるべく表に出れる事を知らせずにしたいと思っています。お隣の塀には何も出来ないので思案中ですが今はこんな不細工な方法で仕切ってます。



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中野 馨一が創る 外構、庭造りの現場のプログより、日曜大工よりヒント頂きました。有難うございます。出来上がりはどうなる事か・・・チト心配。お父さん、がんばって!!
乞うご期待???十兵衛の部屋ですねぇ・・狭いけれど・・がまんがまん~~です。

手前の塀ぐらい簡単にゲンは登りました。柴犬って本来、木も登れるんですって。
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by fumiyoo | 2007-03-01 17:27 | 十兵衛